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3月11日 篠山中学校卒業式 | 小西隆紀(こにしたかのり)兵庫県議会議員 公式サイト
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活動報告ブログ - 2016年3月

2016年03月11日(金)

3月11日 篠山中学校卒業式

 本日3月11日は、東日本大震災発災の日です。
 あらためて、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、今なお仮設住宅で多くの方々が生活を余儀なくされている中、被災地の迅速なる復興と、被災されました皆様が、一日も早く平穏な日常を取り戻せることを切に願います。

 そんな本日、篠山市内では各中学校の卒業式が挙行されました。
 私は、ご招待をいただいたわが母校である、篠山中学校の卒業式に出席させていただきました。

 今年は157名が、篠山中学校を巣立っていきました。
 ご卒業おめでとうございます。

 式中、市議会を代表しての来賓祝辞に立たれた、吉田市員がはなむけにと、デカンショ節の一節を唄われました。
 吉田市議は、地方(じかた)としてデカンショ祭り当日にも櫓の上で唄われる、大御所。
 思わず聞き入ってしまいましたが、唄われた一節がまた素晴らしい。

 ♪ お国~問われて~肩いからせて 俺は丹波の~篠山だ ♪ よォ~おい よォ~い デッカンショ ♪
 と。

 「金を残すは下策、仕事を残すは中策、人を残すは上策」とは、後藤 新平の言葉だと言われています。

 少子化の現代、今こそ後藤の言う「人を残す」、すなわち「どのような人材を育て、後世につなげていくか」の策に第一に取り組まなければなりません。

 以下は、私が 第312回 兵庫県議会に於いて「あらゆる担い手対策の根幹について」と題した質問の一部抜粋です。

【 (略)大正末期から昭和にかけて駐日フランス大使を務めたポール・クローデルは、その在任期間中に関東大震災が発生した際、極度の混乱の中にあっても、身に降りかかった不幸を淡々と受け止め、秩序と礼節を忘れない日本人の姿勢に感銘を受けたと記しています。

 そして、太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった昭和18年には、「日本は貧しい。しかし高貴である。世界で一つ、どうしても生き残って欲しい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ。」と、述べたことでも知られています。

 それと同様に、東日本大震災直後、避難所等での「被災者の節度ある振る舞い」が、世界中から称賛を受けたのは記憶に新しいところです。

 時を経てもなお失われずに脈々と受け継がれて来た、世界が称賛する日本社会の道徳観。

 この原点はどこにあるのでしょうか。この原点をしっかりと認識することこそが、これからの社会の担い手育成・対策の礎になるのではないかと私は考えます。

 フランスの報道番組では、「震災後なぜ日本人は冷静なのか」について、次のように解説しています。

 「日本人は悲観的でない運命論者なのです。運命に身を委ねるのです。災害がいかに大きなものでも、日本人の受け答えは、実に立派なものです。それはおそらく、自然の力を崇拝する神道が教えるところの態度なのでしょう。日本では、人間は自然の一部なのです。云々」と。

 厳しい自然環境や狭い国土の中で、人間が生き残るために有効な制度として自然発生的に生じた日本社会の道徳観。これを守り、継承させるための手段として生まれた日本の伝統文化。

 ポール・クローデルが存続を望んだのは、単に血の集団としての日本民族ではなく、その道徳観の後継者、担い手集団としての日本人であったのではないでしょうか。

 これらを踏まえると、この日本社会の道徳観こそが、世界における日本の存在意義の原点ではないかと考えます。

 地縁と血縁はセットで語られることが多く、日本人としてのアイデンティティーの継承にはこの両方が必要であると思われがちですが、果たしてそうでしょうか。

 血縁は生物としての肉体を形作り、次世代へと継承されるもの、つまり、生物としての継続性に由縁するのに対し、アイデンティティーの核心は心や精神であり、それらは成長の過程で育成されるものです。

 日本のアイデンティティーの継承とは、地縁の中で育まれる「社会性や精神の継続性」にこそ、その意味があります。この「心のDNA」は血統のみに受け継がれるものではなく、むしろ地縁が伝えていくものであり、言うならば誰でもが継承できうるものであります。

 古来、この「心のDNA」は、集団で行う農作業や村の祭り等々、日々の暮らしの中に溶け込んでいた年中行事の中で自然と継承され、システムとして働いてきました。それとともに、「山や川にも神が宿り、また、貧乏神でも神さん、疫病神でも神さん」という「八百万」の世界観の中で、「悲観的でない運命論者である」という日本人としての精神性も育まれてきました。

 しかし、戦後、この日本社会の道徳観を形成する、日本人の精神的主柱、背骨に関しては、政治行政や公教育の場において、意識して取り上げられることが少なくなりました。

 先ほども述べたように、かつて年中行事が、自然とこの日本社会の道徳観を継承させるシステムとして働いていたとするならば、社会の変化に伴い人間関係が希薄になるにつれて、この自動継承システムが働かなくなることを意味します。このままでは、「日本人なら、分かるはず」という、当たり前の感覚が通用しなくなることを意味しています。

 そうであるならば、今こそ、私たち自身がその道徳観を形成する、日本人の精神的主柱、背骨をしっかりと意識し、自覚を持って伝えていかなければなりません。(略) 】

 この文章は、このブログでも何度か再掲しておりますが、3月11日の卒業式に改めて考える次第です。

 卒業式の後、午後からは『平成27年度篠山市高齢者大学合同学習発表会』を覘かせていただきました。
 
 

 


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