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活動報告ブログ - 2012年2月

2012年02月12日(日)

丹波新聞 コラムにある 死の教育について

皆さん、こんにちは。

 

 本日版丹波新聞に、丹波市内の或る小学生が、『自身の祖父の死』に関して書いた作文が掲載されています。

 また、その作文についての感想等が、コラム欄 『丹波春秋』に記載されています。

 その中では、ドイツでの『死の教育』について、以下の様に紹介されていました。

 

【 ドイツの小学生用教科書では、人の死について克明に書かれているという。死は恐ろしく、苦しいもの。死体はどういうプロセスで腐敗していくのか。人が死んだとき、家族らはどれほど悲しむのか。「死の教育」を幼いころから徹底的に行っているという。】

 

 私は、平成21年2月議会の一般質問で、『命の大切さの教育について』と題して、質問したことがあります。その質問では、

 

【 戦前はいかにして死ぬかを一所懸命考えてきた。終戦後からは日本の成長ぶりに合わせて「生」の方にひたすら重みをかけて生きてきて、「死」のことが忘れられがちであった。

 しかし、どちらか一方のみに偏していては、結果は思わしくない。その歪みが最近の社会現象の中に、認められるようになったと思われる。思春期の子どもたちの自殺や、集団自殺など、死の側への突発的な揺れが生じることが、まずあげられる。】

 との、河合隼雄先生の著書での指摘を紹介し、また、

 

【 ゲーム機を中心とした遊びが増え、仮想現実の世界に容易に入り込むことができるようになり、虚構の世界の中で作り上げられた死に頻繁に接する中で、子どもたちの現実感覚が麻痺している側面がある。この実感を伴わない死の感覚が命の軽視につながっているのではないかと言われている。

 また、人間は死んでも生き返ると思っている子どもやリセットすれば簡単にやり直しがきくと考えている子どもの存在等、子どもたちの命の重みに対する感受性が弱まっている。】

 とする、県教育委員会が設置した委員会からの指摘も踏まえ、

 

 

『 子どもたちに死ぬことの意味についても十分理解させ、「命の大切さ」を理屈だけでなく、実感させる教育を推進する必要があると考えますが、当局のご所見をお伺いいたします。』

 と、質しました。

 

 

 その時の教育長答弁は、

 

【 かつては、日常生活の中で、出産や親族の死に触れる機会が多くありましたが、核家族化の進行に伴い、生や死について触れたり考えたりする機会が少なくなり、命の大切さを実感として捉えることのできない子どもたちが増加をしてきております。

 本県におきましては、このような状況を踏まえ、河合隼雄氏、日野原重明氏、養老孟司氏など著名な有識者からの意見を聴取しながら、『「命の大切さ」を実感させる教育プログラム』を全国に先駆けて開発をいたしました。

 このプログラムは、小学校段階では、命あるものはすべて終わりがあること。中学校段階では、自他の命のかけがえのなさを実感すること。高等学校段階では、死の悲しみや苦しみについて考えることなど、発達段階に応じた達成目標や指導のポイント、実践事例をわかりやすくまとめ、県下の学校ではこれを活用し命の大切さを実感させる教育の実践に取り組んでおります。

 さらに、命の営みやつながりを人間形成の基礎が培われる時期に体験的に学ぶことが重要であるとの考えのもと、小学校3年生で一粒の種を育て、花が咲き実がなり、命が次世代に引き継がれていく体験から、連綿とした命のつながりを実感する「環境体験事業」を実施をいたしております。

 今後とも、命の大切さを実感させる教育プログラムの一層の活用を促進いたしますとともに、環境体験事業の全校実施を進めるなど、生命の誕生の喜びや死の重さ、生きることの尊さを実感させ、自らの命の大切さを深く自覚する教育の充実に努めてまいります。】

 と、言うものでした。

 

 丹波新聞では、この文章を書いたY氏の

『(この作文を書いた小学生)は作文で、涙がこぼれそうになるほどに死を見つめたことで命の大切さがわかったと書いている。死の教育とは、命の重みや生きる意味を考える教育なのだ。』

 との自身の思いを込めて締めてあります。

 

 まさにその通りだと私も思います。

 しかし、ここにこれからの大きな課題があるのではないかとも考えます。

 

 教育長答弁の冒頭にもある、『日常生活の中で、出産や親族の死に触れる機会が多くありましたが、核家族化の進行に伴い、生や死について触れたり考えたりする機会が少なくなり、命の大切さを実感として捉えることのできない子どもたち』 が、大人になり、社会を担っていこうとしている中で、

 

 子ども達に『死の教育』を教える側が、こういった実体験を伴わなかったとすると、いくら教材や環境が整っても、それは、何か道具か機械の『取り扱い説明書』を、ただただ読んでいることと変わらないのではないかと思え、「教える側」のこの部分こそが、大きな課題になるのではないかと思われます。

 

 現代社会では、徐々に人間関係等が希薄になり、震災を教訓に『絆の必要性』が声高に叫ばれる今こそ、『死の教育』『命の連続性』『文化の継続性』それらをすべて含む『絆の必要性』の根幹、原点についてしっかりと認識し意識することが重要ではないかとも考えます。

 

 私は、この2月の本会議で、この観点で、質問をぶつけてみようと思います。

 

 折角の施策や事業が、取扱説明書の朗読にならないように。

 

 

 

 


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