『ソフトバンクのCMに思うこと』第312回兵庫県議会一般質問からの抜粋
これは、私が 第312回 兵庫県議会に於いて「あらゆる担い手対策の根幹について」と題した質問の一部抜粋です。
【大正末期から昭和にかけて駐日フランス大使を務めたポール・クローデルは、その在任期間中に関東大震災が発生した際、極度の混乱の中にあっても、身に降りかかった不幸を淡々と受け止め、秩序と礼節を忘れない日本人の姿勢に感銘を受けたと記しています。
そして、太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった昭和18年には、「日本は貧しい。しかし高貴である。世界で一つ、どうしても生き残って欲しい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ。」と、述べたことでも知られています。
それと同様に、東日本大震災直後、避難所等での「被災者の節度ある振る舞い」が、世界中から称賛を受けたのは記憶に新しいところです。
時を経てもなお失われずに脈々と受け継がれて来た、世界が称賛する日本社会の道徳観。
この原点はどこにあるのでしょうか。この原点をしっかりと認識することこそが、これからの社会の担い手育成・対策の礎になるのではないかと私は考えます。
フランスの報道番組では、「震災後なぜ日本人は冷静なのか」について、次のように解説しています。
「日本人は悲観的でない運命論者なのです。運命に身を委ねるのです。災害がいかに大きなものでも、日本人の受け答えは、実に立派なものです。それはおそらく、自然の力を崇拝する神道が教えるところの態度なのでしょう。日本では、人間は自然の一部なのです。云々」と。
厳しい自然環境や狭い国土の中で、人間が生き残るために有効な制度として自然発生的に生じた日本社会の道徳観。これを守り、継承させるための手段として生まれた日本の伝統文化。
ポール・クローデルが存続を望んだのは、単に血の集団としての日本民族ではなく、その道徳観の後継者、担い手集団としての日本人であったのではないでしょうか。
これらを踏まえると、この日本社会の道徳観こそが、世界における日本の存在意義の原点ではないかと考えます。
地縁と血縁はセットで語られることが多く、日本人としてのアイデンティティーの継承にはこの両方が必要であると思われがちですが、果たしてそうでしょうか。
血縁は生物としての肉体を形作り、次世代へと継承されるもの、つまり、生物としての継続性に由縁するのに対し、アイデンティティーの核心は心や精神であり、それらは成長の過程で育成されるものです。
日本のアイデンティティーの継承とは、地縁の中で育まれる「社会性や精神の継続性」にこそ、その意味があります。この「心のDNA」は血統のみに受け継がれるものではなく、むしろ地縁が伝えていくものであり、言うならば誰でもが継承できうるものであります。
古来、この「心のDNA」は、集団で行う農作業や村の祭り等々、日々の暮らしの中に溶け込んでいた年中行事の中で自然と継承され、システムとして働いてきました。それとともに、「山や川にも神が宿り、また、貧乏神でも神さん、疫病神でも神さん」という「八百万」の世界観の中で、「悲観的でない運命論者である」という日本人としての精神性も育まれてきました。
しかし、戦後、この日本社会の道徳観を形成する、日本人の精神的主柱、背骨に関しては、政治行政や公教育の場において、意識して取り上げられることが少なくなりました。
先ほども述べたように、かつて年中行事が、自然とこの日本社会の道徳観を継承させるシステムとして働いていたとするならば、社会の変化に伴い人間関係が希薄になるにつれて、この自動継承システムが働かなくなることを意味します。このままでは、「日本人なら、分かるはず」という、当たり前の感覚が通用しなくなることを意味しています。
そうであるならば、今こそ、私たち自身がその道徳観を形成する、日本人の精神的主柱、背骨をしっかりと意識し、自覚を持って伝えていかなければなりません。
孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば、百戦危うからずや」とあります。国際化の中で、競争相手を研究することはもちろんですが、その前に、自らを知るということこそがさらに重要なのです。
さて、私は、これまでの一般質問において、ほぼ毎回、白い小さな犬が一家の父親を演じる不思議なコマーシャルについて、「おかしくないですか」という問いかけをしてきました。
中国大陸や朝鮮半島は、伝統的に血統を重んずる社会です。そのことは、現在でも、韓国の民法809条で、男系血族の配偶者・夫の血族・8親等以内の姻戚間婚姻の禁止を規定している事からも分かります。また、10年ほど前までは、同姓同本の婚姻も禁止されていました。彼らの社会での夫婦別姓制度は、ここに起因しています。
血統・血筋を重んじてこそ高度な人間社会であると考える人々から見ると、「犬や猫など動物の社会は、血統・血筋などお構いなしである。つまり、血統・血筋を重視しない社会や集団、民族は、まさしく『犬・猫同様の社会』である」となるわけです。また、こういった社会・集団、民族をさして、韓国朝鮮語には「犬の子」と言う表現もあるほどです。
振り返って日本では、姻戚間婚姻が容認されるなど、血統の保持に彼らほど強く固執しないため、この犬のコマーシャルは、まさに、「日本社会に対する蔑視と自民族優越主義」を鼓舞する密やかなメッセージではないかと勘ぐられても仕方がありません。
実際に、ネット上等では、そういった観点からの主張も増えつつあります。当初、私もそのような意図があるのではないかと考えておりました。
しかし、民族間に大きな確執を生む可能性を秘めたメッセージを、あれほど単純に発信するとも思えず、逆に、更に深い問題提起があるのではないかとも考えるようになりました。
あの犬の家族の名字は、白戸家。犬のお父さんの名前は、次郎。我が県出身で、GHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白州次郎と、わずか一字違い。この、わざわざ白州次郎を連想させるようネーミングも、何の意図もなく偶然に作られたものとは、私には到底思えません。(白州次郎のことを学校等で学んでいなかったらピンとも来ませんが・・・。)
後日、佐野眞一著「あんぽん 孫正義伝」を読むに至り、この思いは確信に変わりました。孫正義氏の生い立ちを祖父母の代から遡って記したこの著書では、あのコマーシャルについてはほとんど触れられていませんし、今私が述べたような視点からの考察は一切ありません。
しかし、この本を読み、改めてこのコマーシャルに向き合ってみると、そこから見えてきたのは、「相手のことも、ましてや、自分たちのことも、全く知ろうとしなくなった日本社会」への隠された問題提起ではないかということです。
つまり、私は、あのコマーシャルに込められた本当のメッセージは、同胞に対しては、「血統や民族のみに執着して自己満足の世界に溺れてしまうようでは、いつまで経っても世界から尊敬される存在にはなれない」という戒め、日本人に対しては、「血統や民族のみにこだわることなく、寛容の精神を持って、数代にわたり日本社会の中で、ともに生きてきた我々を心のDNAの継承者として受け入れて欲しい」という呼びかけではないだろうかと考えるに至りました。
日本人を軽蔑するのではなく、むしろ逆に、血統のみにこだわることの無意味さを説くとともに、日本人の寛容の精神を賞賛し、そして、これからもその高い道徳観を形成する、日本人の精神的主柱、背骨を大切に受け継いでいくよう、私たちに伝えようとしているように思えてなりません。
これはまさしく、これから国際化が進むなかでの日本の国家の在り方、その存在意義に対する問いかけであるとともに、国家を構成する日本の地域社会の在り方についても、今一度考えさせられる問題提起ではないでしょうか。
私は、多くの日本人に、あのコマーシャルを見て意味も分からずに、また思いを巡らせることもなく、ただただ、あはははと笑っているだけであって欲しくありません。また、表面的な狭い意味だけをとらえて、無意味な対立をして欲しくもありません。】
以下質問は続く・・・。
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