『死の選択、正しくない』
皆さん、こんにちは。
まず、本日の活動報告をしておきます。
10:00~執行部会議 10:30~建設常任委員会 13:00~政調会長会 13:30~弁護士会面談 15:00~建設部会、また、これらの合間合間で、当局説明等々を受けました。
本日の各会派政調会長会では、「北朝鮮の核実験実施に抗議する決議」の座長案が承認されました。
この後、議会運営委員会、各会派での総会等で承認されれば、明日の本会議で決議される予定です。
さて、表題の件です。
大阪府大東市で、学校の統廃合に反対するメモを残して自殺した小学5年生の男子児童の父親が、「何かを止めるために、死を選ぶなどあってはならない。息子の取った方法は、決して正しいことではない」と共同通信の取材で訴えたと、今朝の朝刊に載っておりました。
かけがえのない子供を亡くし、想像に絶するほどの悲しみの中で、この発言が出来る御両親に対し、深い深い敬意を表するとともに、御子息のご冥福をお祈りするばかりです。
この発言には、御両親の「社会に対する責任感の強さ」を感じずにはいられません。
私たちは、この子供の死とともに、御両親の思いを無駄にしてはなりません。
私は、平成21年2月の第299回定例会一般質問で 『「命の大切さ」の教育について』と題した質問をしました。以下がその抜粋です。
【子供の自殺等の痛ましい事件が後を絶ちません。そういう報道があるたびに、世の中はこぞって命の大切さを教えましょうということになります。(略) 河合隼雄先生は、命の大切さを教える難しさとして、次のように提言をされております。「昔の日本は命の大切さをとりたてて教えることを考えなくてもうまくいっていた。物がないと分け合うなど、いろいろ教えなくても自然に心と心はつながっていた。ところが、今は、物は豊かになったが、心と心のつながりはおろそかになっている。こうした社会状況の変化の中で、命を教えることは難しい」。さらに、「親子の間にしっかりとした心のつながりがあれば、命の大切さは実感できる。一番の根本は親子関係にある」と、もちろんそのとおりだと思います。
しかし、それでは、自殺した多くの子供たちは、親子の関係が希薄であったため命の大切さを理解していなかったのか、私はそうは思いません。彼らは命の大切さを十分に知っていたと思います。そのほとんどの子供たちが親の愛情を受け、大切に育てられたと思います。彼らは親にとって、また自分にとって、その命の大切さ、価値については十分認識していたと思います。ですから、あえてその大切なもの、価値あるものと引きかえにしてまで訴えたかったのでしょう。
自殺の原因はさまざまでしょうが、当事者にとっては、その時点で一番大切な命をかけるにふさわしい事情だったということでしょう。そして、その自殺の原因であろうさまざまな事情を、まず速やかに取り除くための努力は必要であります。
一方、河合先生は自身の著書の中で、次のような指摘もされています。「戦前はいかにして死ぬかを一生懸命考えてきた。終戦後からは、日本の成長ぶりに合わせて生の方にひたすら重みをかけて生きてきて、死のことが忘れがちであった。しかし、どちらか一方のみに偏していては、結果は思わしくない。そのゆがみが最近の社会現象の中に認められるようになったと思われる。思春期の子供たちの自殺や、集団自殺など、死の側への突発的な揺れが生じることが、まず挙げられる」と。すなわち、命の大切さを教えるに当たっては、生と死の持つ意味について、また、死の恐怖について教えることが大切だと説かれております。
また、県教育委員会が設置した有識者等で構成する委員会からの「命の大切さを実感させる教育への提言」の理論編では、「特にゲーム機を中心とした遊びがふえ、仮想現実の世界に容易に入り込むことができるようになり、虚構の世界の中でつくり上げられた死に頻繁に接する中で、子供たちの現実感覚が麻痺している側面がある。この実感を伴わない死の感覚が命の軽視につながっているのではないかと言われている。また、人間は死んでも生き返ると思っている子供や、リセットすれば簡単にやり直しがきくと考えている子供の存在等、子供たちの命の重みに対する感受性が弱まっている」として、ゲーム機などの弊害とともに、生と死の持つ意味を考える機会や命の有限さ、かけがえのなさを理解する機会が失われていると提言しています。 (略)
そこで、死への恐怖心が子供たちや若年者の自殺への抑止力となるよう、子供たちに死ぬことの意味についても十分理解させ、命の大切さを理屈だけではなく、実感させる教育を推進する必要があると考えますが、当局のご所見をお伺いいたします。 】
以上が質問。
昔、曾祖母の部屋に“天国と地獄の絵”があって、幼かった私が部屋に遊びに行くと、いつもその絵を見せながら、「悪いことをしたら死んでから地獄へ落ちる」と聞かされました。怖いもの見たさもあったのか、私はその話を聞くのが何となく好きでした。今から考えれば、そんな私の期待に応え曾祖母はその話をいつもしていたのかもしれませんが・・・。
その曾祖母がなくなった時、強烈に“死の恐怖”を感じたものです。
家では核家族化が進み神棚や仏壇がなくなり、地域でも神社やお寺にかかわることが少なくなってきています。
私の質問に対して当時の答弁は、「ゲーム」に関してが大部分を占め、核心については、言い方は悪いですが、はぐらかされています。今から思えばそんな感もあります。
しかし、今回の御両親の思いはしっかりと受け止めなければなりません。
「死の恐怖」をいかに教えるか、今一度考えたいと思います。
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